"Ruby Red"
話はそれますが、この前ダムドのドキュメンタリー映画とヒップホップグループN.W.A.を描いた「ストレイトアウタコンプトン」を観ました。まぁどちらもメンバー間のギャランティの配分、権利関係で揉めていく様が描かれてます。"メンバーなのにバンド名を使えない"または"後期にちょろっと入っただけなのに堂々とそのバンド名で商売"なんて例もよくありますね。御存知の通りスレイドは黄金期のメインボーカリストとメインソングライターが居なくなってから随分経ちますが、残りの2人がスレイド名を使って(90'sにはSLADE Ⅱという名で活動)引退した2人がそれを許している関係がとてもイイな〜と思うんですね。スレイドのクレジットはほとんどがHolder/Leaでデイヴとドンには印税が入りませんから今でもツアーで稼がなきゃならない事情もあるんでしょうが素晴らしいロックンロール人生じゃないですか。ではこの曲をどうぞ。
"Nobody's Fools"
これが収録されてる同名タイトルのアルバムはアメリカツアーを経てアメリカでの成功を念頭に置いた曲作りがされたと言われています。簡単にいうとソウル、ポップス路線。がラウドなロックを求めるファンズからソッポを向かれグラムロック黄金時代も終わりに差し掛かりセールスがふるわず古巣ポリドール最後のアルバムとなってしまいました。でもお聴きの通り「頼むから再評価なんてしないで。いつだってジム・リーは最高のソングライターなんだから。」と思わずにはいられません。んでもって低迷期に入るんですが「ラウドなロックが欲しい?は?永遠に得意ですが何か。」てなばかりにこの曲を。
"Give Us A Goal"
チャートには入らなかったですがパンク隆盛期真っ只中の78年のこの曲。スティンキー・ターナーをして"Rock God"と言わしめたスレイドのテラスィーズチャント直球ド真ん中…滾りますな。
さてお次は全盛期の埋もれた名曲で(チープトリックもカバーしてますね)ジムが初めてリードで歌ったナンバーなんですが、趣向を変えて嫁と弟を従えたサイドバンドThe Dummiesのバージョンでお届けしましょう。
"When The Lights Are Out"
ポリドール時代も原盤権利はチャス・チャンドラーが興した"BARN"が持っており、これがそのままレーベルとなり低迷期といえどアルバムは常にリリースされツアーもしています。どうやらダミーズを作った狙いの一つは本丸のラジオエアプレイが芳しくなく(メジャー配給じゃないからか?)話題作りの一環という側面があったみたいですね。甲斐あってラジオエアプレイ回数は増えたようですが、スレイド本体のセールスはあまり変わらなかったそうです。ダミーズはスレイドよりも当時流行ってきたNew Waveの影響を多分に受けたサウンドでロイ・ウッドが参加したり今でいう所のパワーポップとしてその筋では人気がありますね。次の曲はカバーなんですが「自分らクリスマスの大名曲あるやん?何もこんなの演らんでも…」と言うなかれ。寸分の狂いもないハマり具合を堪能して下さい。
"Do They Know It's Christmas"
ここで先程流したダミーズのドラマー、ジムの弟フランク・リーに関してのエピソードをば。スレイドがチャートトッパーだった全盛時、ドラムのドン・パウエルは愛車(20代前半で‼)ロールスロイス社ベントレーで事故を起こし同乗者、当時の彼女を亡くしてしまいます。絶望的な失意の中ドラムを叩けなくなったドンはライブをキャンセルしますがツアーは止まりません。そこで代役を務めたのがドンを師匠とした弱冠18歳のフランク・リーだそうで、何千人ものオーディエンスの前で演奏した翌朝には本業の工員さんとして早起きしなければならなかったと云うワーキングクラス丸出し逸話にまたひとつスレイド愛の昂ぶりを禁じ得ません。
諸々紹介をしてきましたが最後に。私が考える世界最高のソングライターの1人ジム・リーさんはスレイド脱退、というか「スレイドは引退」後も音楽活動は続けており色んなプロジェクト名で作品を発表。時系列が不明でOASIS「が」パクったのかOASIS「を」パクったのかわかりませんが、あまりにレノン愛が溢れすぎたこの曲でお別れしたいと思います。
"I'll Be John You'll Be Yoko"
来日とはあまりリンクしない内容でしたがまた逢う日まで。逢える時まで別れのその訳は話したくないって事でさよなら〜。
※スレイド来日延期になりました。デイヴヒルが12月ツアー先で自転車と接触事故で怪我のため(肘)。
3月から再開予定が予想以上にダメで延期だそうです
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